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毛布のまち' 泉大津

  大阪府の南部に位置する泉大津市とその周辺では、国産毛布の90%以上が生産されており、

 

  泉大津市は全国No.1の生産量を誇る日本一の毛布のまちです。

​毛布産業の歴史

真田幸村が開発した真田織と

木綿織りの技術

 

 1600年頃、関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村が和歌山県の九度山で幽閉されていたとき、「真田紐」で知られる真田織という技術を考え出し、真田紐を売り歩いて生計を立てていました。

 

  その真田織の技術がこの泉大津に伝わり、真田紐をつくる業者が多くうまれました。

 また古くからこの地域では綿花の栽培も盛んで、江戸時代には稲と綿花との作付け面積が同じだったほど、盛んに綿の栽培がおこなわれていました。そのため木綿織りの技術も発達していました。

 この真田織・木綿織りの技術が歴史的に根付いていたからこそ、今の毛布のまち泉大津があるのです。

写真:真田家の甲冑

「赤ゲット」=田舎者?

  明治になると洋装文化が一気に広まり、「赤ゲット」(赤いブランケット)と呼ばれた高価な輸入毛布がブームを起こし、庶民の憧れとなっていました。

  当時は寝具としてではなく、衣料として使われるものであったようで、東京など都会見物に行くいわゆるオノボリさんは必ずその赤ゲットを肩にかけて歩いていたそうです。

 そのため辞書で「赤ゲット」と調べると、「田舎から都会見物にきた人。お上りさん。」と書かれており、人を指す言葉ともなっています。ドラマなどでもこの時代の田舎者が東京へ出てくるような場面では、赤ゲットを被って登場することが多くあります。

​写真:当時の赤ゲット

明治20年 

  明治19年(1886年)、そんな憧れの赤ゲットを日本で作りたいと考え、真田紐を作っていた業者たちが集まり「真盛社」が設立され、初めて泉大津で日本製の赤ゲットが作られました。

  輸入された赤ゲットは羊毛で出来ていましたが、当時羊毛はなかなか手に入らず、代わりに牛の毛を使って作りました。短くて硬く、さらには臭い牛の毛を赤ゲットにすることはかなりの苦労があったそうです。その苦労により、毛布の風合いの命である泉大津独自の起毛技術が発達し、後の毛布産地につながっていきます。しかし、服地として製造されたこの赤ゲットは牛毛の硬さと、その臭さのためにあまり売れ行きは良くなかったようで、翌年には真盛社は解散してしまいました。

  しかし、「服地がダメなら、寝具に」と発想の転換をし、明治20年(1887年)に日本で初めての毛布が完成しました。

写真:日本最初の牛毛布

日本で毛布が初めてつくられる

綿毛布の世界輸出

 

  その後、この地域でもともと盛んであった綿花の栽培も後押しし、綿毛布も開発されて作られるようになります。この頃から、多くの真田紐の業者が毛布業者に転換していきました。

  この綿毛布は比較的安価に作ることができるので、日清・日露戦争を契機として中国やロシアへ広まっていき、泉大津の毛布が世界へ輸出されるようになっていきました。

  一方で、牛毛布も続けて生産されていたようですが、1920年頃には真田紐の生産と共に衰退していったようです。

  世界へ飛び立っていった泉大津の綿毛布は、大正6年(1917年)には155万枚も生産されました。欧州でつくられていた羊毛でできた赤ゲットの産業は重なる産業革命と共に衰退していき、日本で憧れの赤ゲットが手に入りにくくなると、それに代わる羊毛の毛布が台頭しました。

分業制による毛布の生産

  日本の毛布全国シェア75%を超え出した泉大津では毛布の分業生産が盛んに行われており、紡績は紡績屋, 織りは織屋, 起毛は起毛屋など泉大津中のどの通りにもたくさんの毛布に関わる工場がありました。しかし、工場といっても広さは大きな屋敷ぐらいのものが多く、民家の並びにごく自然に溶け込んでいました。

  毛布の製造工程は複雑で、各工程で卓越した職人の技術が必要とされます。特に起毛の技術は奥深く、「毛布の善し悪しは起毛につきる」と言われるほど重要な技術でした。だからこそ、分業制による各工程のプロの存在が不可欠だったのです。

  この分業制は1842年の記録から既に始まっており、酒造の灘と並ぶ日本で最も早いマニュファクチュア(工場制手工業)の始まりだったとも考えられています。

 

  分業制が古くから確立されていたからこそ、各工程で技術が向上し、泉大津の毛布の品質が世間に認められたことで今に残っているのです。戦前のピーク時の生産は1千万枚にもなりました。

ガチャンと織れば万のお金になる「ガチャ万景気」

 

  太平洋戦争の貧困の中、毛布どころではない時代が終わり、昭和24年(1949年)から生活が豊かになっていくごとにどんどん毛布の需要は増えていきました。ガチャンと織れば万のお金になる「ガチャ万景気」とまで呼ばれました。

  毛布の開発も進み、スフ毛布やタフト毛布が開発され、電気毛布, こたつ毛布, 夜着, 敷物など商品の多様化も進みました。

  その後は毛布が広く行き渡り、毛布の過剰生産による価格の暴落なども起こり、昭和46年(1971年)をピークに生産量は減少傾向をたどっていきます。

Qマークの発行

  平成に入ると今までにない安価な中国製の毛布が登場し、輸入毛布量はどんどん増えました。平成7年(1995年)には日本の国内生産量を輸入量が上回るまでに。

  それに伴い国内の毛布工場は減少し、毛布一貫工場は現在において織毛布とマイヤー毛布で弊社を含み各1社ずつしか残っていません。さらに平成29年(2017年)には、分業工場のひとつとして唯一残っていたプリント染色工場も廃業、毛布のスクリーンプリント機は弊社たった1台となりました。

   そのような中、日本製の毛布、泉大津の毛布の品質をもっと全国の人に知ってもらうため、平成20年(2008年)に日本毛布工業組合が、安心・安全国産品の証として「Qマーク」を発行するようになりました。

 日本製の生地を使用し、染色整理、縫製等の全てが国内で行われ、別に定めた品質基準に合格した製品のみにQマークの使用が認められています。毛布一枚ずつにこのQマークがつけられ、シリアル番号が印字されています。Qマークには日本古来の毛布への思いが込められています。

日本製の毛布をもっと届けたい

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